回り道の40年です。多くの皆様に支えられて、いまの私があります。

「よしなか」って読めますか?

私は1973年9月19日、自宅近くの小田原市立病院で、
父・小澤良明、母・晶子の長男として産声をあげました。
体重は2,560g。最初の選挙の獲得票数と全く同じということで、
父はこの数字に何かの縁(えにし)を感じたといいますが、
私は一週間ほどガラスの保育器で過ごしたようです。
名前については、
善良な人間として道の中央を正々堂々と、歩いて行ってほしいとの思いから
「良央(よしなか)」と命名されました。
この漢字で「よしなか」と読むのには相当無理があったと思いますが、
命名時の父は、そんなことは露とも思わなかったそうです。
実は今でも「良央」って何と読むのと聞かれることが多いのが事実です。

「ガンダム・ザワちゃん。」

幼少時は近所に同世代の子供が多かったせいか、
みんなヤンチャ坊主で、隣地のお寺でお墓を利用した
「隠れん坊」に励み、「大雷」を落とされたことは数知れません。
すぐ近くに小田急線の踏切があったので、ふと思い出すと、
冷や汗が出るほどのいたずらもしたことがあったかと思います。
ご多分に漏れず、私は「ガンダム世代」です。
小さい時はファミコンとガンダムが私の全てで、
今でも「お台場のグレート・ガンダム」を見に行きたくて仕方がなかったのが本音です。
幼少時のあだ名は「ザワちゃん」でした。

無口で、引っ込み思案でした。

今までは、ちょっと気取った自己紹介でしたが、本当のことを言います。
私にはトラウマがあります。それは「おねしょ」の経験です。
小学校4年生の時、私は「おねしょ」をしてしまいました。
今でもはっきり覚えています。何故かあの感覚は「デジャブ」です。
もう一つ、私は「無口な子」だったようです。
3歳まではほとんどしゃべらず、「この子は一人前にしゃべれるようになるのだろうか。」と
祖母が本当に心配したそうです。
さらに、私の引っ込み思案な性格です。
父が政治家であったので、小さい時から「人様に迷惑をかけない、人様にはお世話になっているので
自分の本音を出してはいけない。」と周囲から言われてきました。
ですから、小学生の時から「自分を抑える」ことが習性でした。
祖父や父の仕事柄、結果として、私は「恥ずかしがり屋で社交性のない子供」でした。

「挫折の連続の青春」

勉強は好きではありませんでした。
が、中2の時に、みんなが受験に目覚め始めたので自然に受験生になりました。
高校は東海大学付属相模高校に進学しました。
当時はともかく体育会系の学校で、
ツメエリで服装にもヘアスタイルにも厳しい規制があり、恋愛なんて御法度。
1時間以上の片道通学生活を真面目に過ごしました。
数学が苦手の高校生でしたが、祖父が起こした機械関係の会社の跡をついで欲しい、という
祖父母や父母の強い願いもあって、大学は「機械工学科」に進学し、試練の学生生活が始まりました。
私の大学生活は挫折の連続でした。
数学が嫌いな工学部の学生は、憂さを晴らすために、スキー・サークルに入りました。
夏休みには、一ヶ月以上も野沢温泉で仲間と一緒にアルバイトしながらスキーに熱中し、
サークルの部長として忙しくしているうちに、単位が取れず留年の悲哀を味わいました。

心に響いた恩師のことば

工学部の主任教授に相談する機会を得たとき、
「若い時代の苦労なんて大したことはない。留年して勉強しなさい。」といわれて、
途方に暮れてしまいました。
安易に工学部を選んだ自分を悔いてなりませんでしたが、やるより他はありませんでした。
文系に進学した高校時代の友人は「ひたすら大学生生活を謳歌」していましたが、
私は微分・積分と長い間苦闘しました。
今になって思いますが、「青春時代の苦労は決して無駄にならない。」という
教授の言葉は嘘ではなかったなあーと実感しています。
卒業できたときは本当にやり遂げたという充実感がありました。
(実を言うと、今の家内はスキー・サークルの仲間として知り合えたのですが…)

「家業」を継ぐ。

大学卒業と共に実家の会社に入社しました。
最初は一兵卒として、事務所の掃除からトイレの清掃まで何でもやりました。
大学4年生で会社の手伝いを始め、
入社してからズーッと「休みは週一回あれば良いほうだ」の生活を今でも続けています。
経営者になって8年が過ぎ、
「小田原は中央の景気の外にあって、上向くことは経験したことがない。」のが正直な手応えです。

いま、真剣に「ふるさと小田原の未来」を考えています

家庭をもち、二人の子供にも恵まれました。
仕事は厳しいけれども、頑張っていこう、と経営者として考えていました。
けれども、このまま仕事を続けていくことが、自分として本当に正しいのだろうか。
祖父や父たちが、自分のことは二の次で、
世のため人のために働いてきたことを、私の代でやめてしまうことは、
自分の我が儘ではないのか。
そう考える自分がいることに気づきました。
自分にやるべきこと、やらねばならないことがあると、いま、心から思い始めています。
何とか「ふるさと小田原の未来」を拓いていきたい。
いまの私の本音であり、実感です。